突然でありますが…天職たるものについて。

 

仕事=何かに仕える事、職業

天職=天に職でテンショク、または天性。
天から与えられた、授かった仕事、
その仕事をこなす能力、才能も含む。

天という場所は、どのような宗教観念であっても、神の棲む場所として認知されていると思うのだが、その天が与えた力というのは個々に宿っている、宿命というかデフォルトというか。天という場所は、ワタシが想像する限り、地上における価値観念、例えばお金、名誉という尺度は存在しないと想像する(実際に行ったわけではないから、それは想像でしかない)。そういう尺度がない処の定めるものであるからして、地上の観念でその能力を評価したり、または何かに換算したりというのは、もしかしたらとても野暮なことなのかもしれない。また、天職を元にし見返りというものを期待するというのも、実は天職に対して計らわれるべきことではないのかもしれない。

この天職の仮説(と一応釘を刺すが)からみて、対岸にあるのが適職(または適性、適職の仮説)になるだろう。適した仕事。「天」に通ずるよな所在を示す文字が含まれていないことから、授かるといった受身な印象がこの文字からはしない、そう、現世的な言葉に聞える。仕事の適性を計る時に、適性を見る、適性検査をするなど、どの程度適しているかを考慮、配慮していくが、天性を計ること、検査することはない。それは、適職、適した仕事においては天性は不要である現れか?それとも、最近の会社では、天性テストなるもの、既にやっているのだろうか?

天職が、生まれもって宿している能力であるなら、適職は、生まれてきた環境、これから出会う、遭う様々な事々、人々など外の影響を受け自分の中で育てていく、開発されて行く能力のような気がする。それは、天職という能力が最初から使い物になるとか、育てる必要もないとか、そういう括りではない。天職は、磨く作業から始まるし、適職は種をまくところから始めるというか、スタートの地点に差があるのかもしれない。

天職が地上の価値観念で計れない代わりに、適職は地上の価値観念で計ることができる、というか計って良いものなのかもしれない。それは、この地上にいる以上、生計をたてていかなくてはならなく、お金というものと自分の能力を交換する形で前に進まなくてはいけないからじゃなかろうか。(生計の計は計るだしね)そして、適職の能力が上がって行けば、報酬も上がるし、責任も増えるだろうし、それなりに時間に対する枠組も変化し、生活も変化していく。

別に天職でお金は稼ぐものではないなどと説くつもりは全然ない(笑)。 何故なら現に、天職と適職がイコールで結ばれている人は、多くはないにしろ存在するから。ただ、それがイコールだからいいとか、だめというのではなく、そういう状況にある人は、それなりの苦労があり、色々ベストなバランス良い状態を保つために、物事に折り合いというのを付けていくことが必要になってくるんだろう。

天職を極めることは、純粋に喜びの追求であり、その純粋な喜びの追求が天への、自分がきちんと天職を突き詰めていますよ、という報告となり。言い替えれば、この喜びを求めることを持続していくのが、天より与えられた仕事というか。この喜びに対する感情は、その天職への愛着であり、感謝であり。そういう観念があって、後からお金であったり、評価、価値観念はついてくるなら、文句なくスバラシイ。反対に、そういう純粋な部分を飛び越えて、全てがお金、地位、名誉へ直結して、それをまず望む形になってくると、天職というのは天職で無くなってくるのかもしれない。

適職は、生きるための手段、糧であるから、お金や名誉に直結しているから「生計を立てる」と言うのであり、それはむしろ、生計を立てることの唯一の評価基準かもしれない。ただ、そんな適職であっても、その適職の中にも喜びを見出してもいいし、喜びは見出せる、喜びは隠れている。働く喜びである。

ただ、働くことだけが人生の仕事ではなく、自分を労わるであるとか、自分を見つめなおすであるとか、働く喜びだけでは喜びとして満たないであるとか、理由は個々に違うにせよ、違う自分を自分の中に置きたくなるというか、置く必要が出てくる。それが自然な成行きだ。そして、そこにきて天職というものがあることが、とても大事になってくるんじゃないだろうか。

天職というものに、現世の価値観で計れないのは、
例えば、天職が主婦の人もいるかもしれないし、
例えばボランティアで人に尽くすことが天職という人がいるかもしれない、
そういうことからも言えると思う。

天職なんて分からないという人がいるなら、自分を見つめてみれば意外に答えは近くにあるかもしれない。例えば、「教えること」に天性が隠されている場合。実はプロのフルタイムの先生になるには(お金を得るには)能力的に限界を感じるが、教える喜びは何にも変えがたい、という人がいるなら、週2日の塾講師であっても、家で教室を開いて子供を呼んで算数を教えるということでも、立派に天職に結びつき、天職としてその「教えること」に喜びを見出し、天の命を真っ当して行けるだろう。

適職を育てていく、成長させていくための水、肥やしがお金であったり名誉であるなら、天職を育てていくのは、臭い言い方をすれば夢であり、その天職を信じる心、夢を信じることであり、天職を愛することだと思う。つまりは、天職と夢というのは、切っても切れない関係にあるとも言えるし、自分を信じるということも繋がると思う。

結果的に、天職と適職が逆転したっていい。
一生、天職と適職が交わらなくても、平行して存在してもいい。
天職と適職が結びついていてもいい。

天職に気が付いている人は、天職を大切にしよう。
天職に気が付いていない人は、一日も早く天職に気が付きます様に。
天職を捨てようとしている人は、それは捨てられるものではなくって、
どこに行くにも持って行く大事なものだと気が付きます様に。

あなたも、あなたも、そこのあなたも、
天職を持ってるんですよ。

夢を育てましょう。
自分を信じましょう。

と、日曜日の昼時にワタシは思うわけです。